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TEAM防災ジャパンお世話係企画チーム 『シリーズ 被災地の「いま」 ~2000年鳥取県西部地震を経験して』開催レポート

TEAM防災ジャパンは2021年8月28日(土) シリーズ企画『被災地の「いま」』をオンライン開催しました。

〈主なプログラム〉
●講師の紹介と事例紹介
 山下 弘彦  高田 美樹(日野ボランティア・ネットワーク) 
●進行
 阪本 真由美(TEAM防災ジャパンお世話係・兵庫県立大学) 
 原 耕平(鳥取県危機管理局)
●質疑
●まとめ

〈概要〉
2000年鳥取県西部地震で大きな被害を受けた鳥取県日野町。日野ボランティア・ネットワークは町内外のボランティアのつながりをつくり鳥取県西部地震で被災した町の被災後の地域づくりを進めるため、日野町民と町外から集まったボランティアが一緒に、2001年4月に結成されました。被災後の地域づくり活動に取り組み、2006年からは鳥取県西部地震の展示交流センターの運営などを通して災害の経験の継承にも力を入れています。
山下弘彦さんは、2000年旅の途中で鳥取県西部地震に遭遇し、その後、日野町でボランティアとして活動したことがきっかけとなり、日野町に暮らし、日野町でのボランティア活動、町内外の防災・福祉・地域活動等の取り組み支援をしながら、全国の被災地支援にも取り組んでいます。また、高田美樹さんは日野町の隣の日南町出身で、2014年から5年間、子連れで展示交流センターの運営に携わっていました。その間に、鳥取県西部地震で被災した子育て世代のお母さんのインタビューを冊子にまとめています。過疎高齢化が進む、中山間地をどのように活性化していくのかは、日本全国共通の悩みです。日野町では、災害をきっかけに日野ボランティア・ネットワークができ、それにより地域と外との交流が促進され、「高齢者」「障がい者」「子育て中の親」などの方々を支え、またその誰もが地域の一員として関わる新たな取り組みが広がっています。

≪山下弘彦さんのお話≫

【高齢化の進む町と被害】

鳥取県日野町は、岡山県、広島県、島根県の県境近くに位置しています。2000年10月6日鳥取県西部地震時の高齢化率は約35%、現在の人口は3,000人を切り、高齢化率も50%を超え、人口減少と過疎高齢化が進んでいます。
鳥取県西部地震で日野町は震度6強の揺れを記録し、死者はなかったものの、全ての家屋が全半壊、一部損壊の被害を受けました。日野町は地盤が固く、雪が多い地域のため、家がしっかりしています。しかし、蔵の壁が落ちたりし、家の中は大変な状況でした。
発災直後、倒壊した家屋の住民の姿が近所や避難所で見えなかったため、発災当時、お昼であったことからお昼寝をしているのではないかと想像し、近所の人が集まって救出に向かったとのことで、日頃からの地域の連携が迅速な救出へと繋がりました。
近所同士で声をかけ合い、避難誘導するなど、当初の「顔が見える関係」に基づく助け合いが「犠牲者ゼロ」につながったのではないかと思います。

【災害発生後の状況と地域のサポート】

多い時には人口の約20%が避難所へ避難しており、それぞれ様々な理由で、避難所以外の被災した家屋、農作業小屋や車庫、ビニールハウスなどで在宅避難をされている方もいました。
黒坂地区では普段から地域の取り組みが活発で、発災当夜から町公民館にみんなで集まっておにぎりづくりをし、地域が協力しながら避難生活を送りました。また町内各地域でご近所同士の助け合いのほか、当初から、自治会長、民生委員、保健師などが、避難所や自宅などを訪問してケアに努めました。
中山間地の被災地にとって、町や道路がキレイになっても、そもそも住む人がいなくなっては町がなくなってしまう。集落がなくなっては復興もないと、個人財産への支援と批判もあったが、住宅再建に公的な支援がなされたのが大きく、集落維持につながった。被災してこれからの生活を考えられない状況で、十分ではないにしろ、住宅再建や補修に支援が受けられたこと、この支援が早々に発表されたことは、被災者にとって心のケアにもなったと思います。
ただ当時は、ボランティアとして住民の暮らしを見ている中で、住宅も大事だがその後の生活の支援にももっと行政の支援が必要だと思っていました。災害時の環境の変化に伴い、せっかく自宅を再建したにもかかわわらず、認知症の進行で一人の生活が成り立たず、再建した自宅に住むことができなくなってしまった方もいらっしゃいました。

【災害時の支援】

発災直後は、顔の見える関係や地域の繋がりが強かったことも犠牲者ゼロにつながったと感じた。発災当時は、地域の役員やボランティアが住民に支援のお声がけをしても、「大丈夫です」という方があまりに多く、支援が進みませんでした。鳥取県社協の支援もあって災害ボランティアセンターが開設されましたが、兵庫県から支援に来られた桑原氏が「高齢化が進んだ町の被災。長期的な支援体制が必要」と日野町役場に提言してくださったことで、長期の支援体制を構築することができました。

【おばあさんとの出会い】

ボランティアで支援に行った家のおばあさんから、「明日もうちに来るなら、今日はうちに泊まっていきなさい」と言われ、「さすがに災害の時は…」と遠慮したのですが、ボランティアセンターと相談して、泊めていただくことになりました。その夜、おばあさんと色々なお話をしていると、「自分がこの家を守っていかねば」と訴えられたそうです。高齢者が1人で生活するのは心細く、高齢化が進み友だち等が少なくなり、地震の前から寂しいという感情はあったと思いますが、余震が続いて心細さも増すなか、高齢女性が一人で今後この家をどうしたら良いかを考え、修繕の手配などするのは大変。ボランティアなどの支援者が、被災者から「励ましてください」といわれることはありませんが、がんばろうと思ってくじけそうになる背中をちょっと押してあげたり、座っておばあちゃんと話をしたりすることをやっていかないといけないのではと強く思い、それが結果的に日野町に暮らし続けることにつながったのではないか。「この夜、ここに泊まらなかったら、今はここにはいなかったのではないかと思う」。

【高齢者世帯の訪問調査と幅広い支援】

山陰地方は冬の天気が悪く、年が明けるとニーズなどが少なくなってきたため、1,500世帯のうち300世帯の高齢者宅を訪問調査しました。訪問して話をうかがうと、「家の2階は地震の時のまま、ずっと笑顔が出ない、歳だからどうなってもいい」とお話をする方がおり、まだまだ影響が続いていると感じました。
「地震で困っていることは何かありますか?」という趣旨の調査でしたが、地震前に夫を亡くした方が、「夫の咳払いが聞こえなくて寂しい。夫と一緒にこの家のことを考えられない。」と話されたことを聞き、被災による困りごとは、配偶者の死、健康状態、経済的な問題、家庭の事情などと絡まり合っていて、「地震による困りごとは?」と聞いてもそれだけを取り出して答えようがないと実感しました。「支援者目線で聞くのではなく、住民の視点で困っていることを聴かないとダメだ」と感じた。
また、粗大ゴミを出せない等、平時の作業が高齢者にとっては困難であり、平時の生活から困っていることが見えてきました。災害前も何の課題もなくて平和だったのではなく、過疎高齢化でほころびを見せていたところで災害が発生し、更なる苦労が重なったと考えました。

【住民が元気になることが一番~「これからの日野町」を話し合って】

一時的に外からボランティアが支援することによって、町は綺麗になります。しかし、高齢者を含めて住民が元気になって、住民の活動が活発になることが被災後の地域づくりを継続していくためには重要だと考えました。住民同士の繋がりを強めて地域力を高めることにより、気軽に助け合える地域にすることが大切であり、結果としては、高齢者、障がい者や子ども等、互いに見守り合える状態にしていきたい、ということを共有したのです。

【日野ボランティア・ネットワークの結成】

日野ボランティア・ネットワークは「緩やかな絆を作っていく」をコンセプトに活動しており、現在の平均年齢は60歳代くらい、女性が多く、子どもたちも含めて色々な世代が一緒に活動に参加しています。発災後の訪問調査をきっかけに、現在は高齢者の訪問が活動の中心となっています。一度訪問すると、「訪問したあの方はどうしているのか」とその後が気になります。特に訪問調査を行った2月から3月は高齢者が雪深い中で生活をされており、その後の関わりが重要だと考え、訪問活動を始めたのがきっかけでした。結果として、始めてから20年目の現在も、訪問活動を継続しています。

【平時からの繋がりを大切に】

訪問活動では、誕生月に誕生カードとプレゼントとして手作りのおはぎや木のおもちゃ、お花を持って、お祝いを兼ねて訪問し、お話を伺い課題があれば対応を検討して解決につなげています。現在約350人を訪問していますが、多い時は600人ほどの方を訪問していました。
訪問活動には、乳幼児から高齢者まで多くの世代が町内外から参加してくれていて、障害者施設に通所されている方も地域の一員として参加したり、広島県の土砂災害で活動した学生が数回合宿して参加したり、様々な方に参加いただいています。手作りのプレゼントは町内の団体や個人の方に協力をお願いして、連携の機会としています。地震で家を再建した現在80歳代のお華の先生には訪問活動を始めた年からフラワーアレンジメントの指導をお願いし、毎年1回教えていただいており、「うっかり引き受けたが、今では元気の源になっている」とご本人も生きがいの一つになっているかもしれません。

【課題の把握から支援に繋ぐ事も】

今年度から「鳥取県西部地震展示交流センター」の機能も含め、日野町からの委託で運営している「ひの防災福祉コミュニティセンター」には、防災・福祉担当・地域包括支援センターなど行政職員や社会福祉協議会の職員、様々な組織の方に関わっていただき取り組んでいます。高齢者の体調等の状況は日々変化しますが、毎月の誕生月訪問は、お一人に対して年に1回だけです。それでも、訪問時に支援が必要な状況を把握することもあり、その場で玄関前の雪山の雪かきを引き受けたこともありました。ボランティアの事を十分理解されていなくても、平時から訪問活動を通じて、毎年気にかけて訪ねてくれる人、と言う認識で、安心感を持って受け入れてもらえていると感じます。困りごとを口にして「頼む」と言ってもらえることで支援が成り立つので、訪問活動は災害支援のために行っているわけではないのですが、平時からの繋がりは災害時にも活きてくると考えています。

【日野ボランティア・ネットワークの活動】

日野ボランティア・ネットワークは地域の活動団体として、公民館のお祭りなどにも参加しています。引きこもりの若者を受け入れ、その若者が地域に入って活動することにより、地域を元気にすることにも繋がりました。「鳥取県西部地震展示交流センター」は2006年から地域活動の拠点となり、様々な人が集まる場になっています。様々な視察も受け入れており、ある水害被災地の行政職員がこっそり来て、「災害の経験を伝えるために人と防災未来センターのようなものはつくれないが、このような場なら作れそう!」と言って帰られたこともありました。災害の経験を伝え活かしていくために肝心なのは、人がいることです。展示している資料は「ネタ」のようなもので、それを題材にして話をする相手がいることが大切であり、震災当時は生まれていなかった子どもたちへ経験を伝承させることも大切だと思い、活動に力をいれています。
資料館ということだけでは人が集まらないので、交流の場としての機能を意識し、毎年、フォーラムを開催するなど風化しない工夫もしています。また鳥取県西部地震のみの展示になると、災害に関する新しい情報が更新されていかないことから、他の被災地と関わりを持ち、近年発生した災害の資料を集め、経験を発信する場としても活用しています。2011年には、東日本大震災の現地を支援し、被災地に派遣された行政職員にも報告してもらう機会を持ちました。


≪高田美樹さんのお話≫

【防災に対しての気づき】

山下さんから地震についての話を聞く中で、結婚して子どもが生まれても、独身世代の知識や備えのままで防災に関する知識がアップデート出来ていないことに気が付きました。また、子どもや子連れ家族に関する災害資料が少ないことに気づき、日野ボランティア・ネットワークに関わっていただいている方々に発災当時妊産婦だった方を紹介してもらい、「被災ママに聞く」をテーマに約10人のお母さんに地震直後の子どもの様子やその後の生活について話を伺い、企画展示をして冊子にまとめました。
発災直後のお母さんたちが困ることは多く、「地震の揺れで、隣の部屋の子どものところへ行けない」「『家がつぶれるぞ』という声が聞こえたが、子どもを抱っこするのが精一杯」「吊り下げ照明が子どもの上で揺れていて、怖かった」「散歩中で地鳴りが聞こえて、山に近かったので怖かった」「2歳以上の子は、何が起こっているか分からないが、ただ恐怖感だけがあった」「夫が仕事や消防団活動の都合で帰宅できず、不安な中、車で過ごした」「実家に帰るのも、選択肢として難しかった」などさまざまなお話を伺いました。
また、避難所へ避難しても避難所内で子どもが泣いてしまうので、子連れにはハードルが高い場所と感じました。余震が続く中、保育園が休園になって子どもが家に居る中で、家の片付けをするのは大変難しく、その時に託児ボランティアをしてくれたのは本当に助かったそうです。
子どもに関する備えは、季節によって変わります。子どもは体温調整が未熟で注意が必要ですし、成長するにつれ環境変化にストレスを感じる子やこだわりが出てくる子が多くなります。災害時でも子どもは1日1日変化するため、子どもたちのストレスを少なくすることが大切。お母さん達の「不安要素に、1つずつでも事前対策をしておくことが、自分を助けることになる」という言葉が、印象的でした。

【平時からの備蓄】

ライフラインは比較的早く復旧したものの、流通がストップしてしまい、食糧の買いだしができなかったため、事前に子どもの食事の備えがあればと感じたそうです。日常で使う物を少し多めに買っておき、ローリングストックも必要。非常持ち出し品として、「排泄」「食事」「睡眠」「清潔」「遊び」の視点を持って備えると良い。子どもは食べたことがないものは食べないので、いつも何を食べるかを確認したり、事前に食べ慣れておいたりするのも大切です。日常生活を取り戻すためには、おもちゃや絵本など子どもの気分が変わる物も忍ばせておくと良いと伺いました。母子手帳コピーも重要です。母子手帳には予防接種歴や出産状況など親しか知らない情報が記載されていて、個人情報なので保管には注意が必要ですが、コピーしておくのは大切だと感じました。
インタビューを通して、子連れで被災した場合の大変さを改めて感じ、子育て世代の方に防災を日常に落とし込んで欲しいと繰り返し伝えています。年代によって必要な物が異なってくるため、いろんなシチュエーションを想定しておくことが重要であり、災害時には自助で動けるような備えが必要だと思います。

【助け合いは双方向の活動】

成人になると人に助けてもらうことは少なくなりますが、子どもが生まれることで1人ではどうにもならなくなります。近年災害が増加傾向にある中で、人に助けを求める、人に頼るということも大切だと実感しています。
防災を日常から取り組む一つとして、備えをして家族を守ると同時に、誰かを助けるという気持ちが必要です。保育園や学校などと災害時にどのように連絡したら良いか、お迎えはどのルートを通っていけばいいかを事前に把握するとともに、車のガソリンを多く入れておく、スマホの充電、買い物でローリングストック、寝る場所のチェックなど、日々必要な事を子育て支援の集まりなどで話しています。
日野ボランティア・ネットワークでは、当初は「高齢者をどう支援したらいいか」と取り組みを一方向で考える傾向があったように思いますが、地域において見守ったり見守られたりすることは一方的ではなく、互いの関係性が大切で本質でもあると考えるようになりました。いろんな方々の協力をもらい、平時から地域を繋げていくこと、地域でその時できることを一つずつ増やしていくことが重要だと感じています。


≪山下弘彦さんのお話≫

【全国の被災地との交流】

全国各地の被災地へ現地支援に行くことで県内外の方と繋がり、地域交流もしています。能登半島地震後の輪島市とも、支援をご縁に、お互いに行き来するお付き合いがあります。その輪島市では、被災後に様々な支援を受けたことをきっかけに、地域の皆さんの協力を得て、東日本大震災以降、被災地へ輪島らしさを活かして着物地を手提げ袋に仕立て、輪島塗のお箸など生活用品を入れて、現地で訪問活動などをする際にお届けする品を送る活動を続けられています。こうした被災地間で支援のバトンをつなぐ活動は、大きな励みになると感じています。

【これからの日野町】

2019年4月から「認知症になっても大丈夫という町をつくる」ために、誰でも参加できる「わすれんぼカフェ」を毎月開催しています。日野ボランティア・ネットワークのメンバーなどボランティアが、地域包括支援センターなどと連携して取り組んでいます。高齢化・人口減少がますます住んでいく中、この地域には何が必要なのか、地域の方に寄り添いながら、一方的ではなく地域のみんなで一緒に考えながらやっていくのが大事だと感じています。
特に防災と福祉の一体的な取り組みが重要で、地域防災を進めていく拠点を構えている意味も大きく、それが現在の取り組みに繋がっていると感じています。全県的に取り組んでいる「支え愛マップ作り」はマップを作ることが目的ではなく、地図を前にした座談会。みんなでまち歩きをすると見慣れた場所でも実は空き家やブロック塀が危険だったり、元気だと思っていた高齢女性の足の運びが確認できたり。確認した情報を地図に書き込み、語り合う地域のサロンで、これをもとにして話す場を積み重ね、ふだんの見守り活動や災害時の避難を話し合うことなどにつなげることが重要なのです。自分の身の周りの話なので参加者は積極的になり、それが地域での活動に繋がっています。最初は「もう自分はいいから放っておいて。」と言っていた高齢者も、終わる頃には「高齢者のことをこんなに心配してくれているのに、さっきはすまなかった。いざというときに自分一人では逃げられないかもしれないので、非常持ち出し袋を持って玄関で待っているから、助けてくれ。」と言われたそうです。
「誰かに気にかけられている」「誰かを気にかけている」という日頃からの実感が、「助かろう」「助けよう」という意識につながり、大きな被害を受けても立ち直る大きな力になるため、意図的にこういう気持ちを紡いでいくことが大事だと感じています。小さな子どもや障がい者にも「いざというときは助かろう」「必要な時には助けてもらおう」ということと併せて、「親など周りの人が助けを必要としていたら、あなたが助けて」と担い手となることもお願いしています。
「みんなで仲良くすることは難しいですが、少なくとも断絶しない、嫌な人でも挨拶くらいはするなどつながりを切らないことが、いざというときに最低限のセーフティーネットになります」と仰って、お話は終わりました。