まなべる、いかせる、つながれる。防災・減災のオンライン基地。

運営:防災推進協議会 協力:内閣府防災担当

リレー寄稿

※寄稿者様へのご連絡は、各ご所属先へお問い合わせください。

【阪神・淡路大震災25年】大牟田智佐子(おおむた・ちさこ)

2020年3月24日

【阪神・淡路大震災25年】大牟田智佐子(おおむた・ちさこ)

毎日放送 報道情報局

出身地や活動地域:大阪府
最近の防災・減災活動:毎日放送に勤める傍ら、兵庫県立大学大学院減災復興政策研究科博士後期課程で勉強中。災害時のラジオの役割を中心に研究を行う。

1995年1月17日、その時あなたは何をしていましたか?

「ついに来てしまった…」布団の中で激しい揺れに耐えながら、まず頭に浮かんだのはこの言葉でした。
私は入社5年目、テレビ報道の記者2年目。大阪府茨木市のマンションで1人暮らし。今思えば震度5強程度だったと思いますが、ベッドから振り落とされまいと必死でした。
実はこの半年前、突如デスクから「地震記者になれ」との命令を受けました。関西には地震はないと一般には信じられていた時代。それでも3月には「近畿を襲う直下型地震」をテーマに、活断層や歴史地震を取り上げる特別番組を放送することになり、取材を始めたところでした。震災当日は震源と各地の震度を確認してから京都大学の尾池和夫教授の自宅に電話をかけました。「淡路島の地表に断層が現れるほどの大きな地震であった可能性が高い」こと、「今後の余震に注意」することなどコメントを取り、本社に電話を入れてから、持ち場である京都支局に向かいました。しかし電車も止まり、道路は大渋滞。そのうち電話も通じなくなり、その無力感と言ったら…。自分がイメージしていた地震と、現実とはあまりにも開きがありました。
「地震記者と名乗りながら何をしていたのか」。この日の思いが、自分を災害報道に向かわせました。


あなたの25年は神戸にどう影響されましたか?

95年から98年まではテレビ報道の記者として、科学番組などを作りました。しかし98年からおよそ12年間、ラジオ報道の記者、そして震災番組「ネットワーク1・17」のプロデューサーとして震災に向き合ったことは何より貴重な経験でした。テレビでは「何を取材しても新しいことばかり」で、主に地震や建築・土木の専門家を取材していました。が、ラジオでは「震災をテーマとするトーク番組」を担当することになり、取材先も伝え方もがらりと変わりました。専門的なことはわかりやすく親しみやすく、かみ砕いて。また被災者・ボランティア・遺族の方たちとは信頼していただくことを大切にし、人との向き合い方や生き方を学びました。神戸といっても東と西では文化も違い、それぞれ地域性があります。その取材から得たものは今も財産です。


それを踏まえて現在どんな取り組みをしていますか?

2019年4月、大学院に入学しました。目の前のことだけを追い続けた災害報道を少し離れた視点で振り返り、今後に役立つ成果を出せればと考えたのです。働きながらですが、現在は取材に出る立場ではなくなったこともあり、頑張ってみようと…。特に「衰退しつつある」と言われるラジオですが、なくてはならない役割があるのではと考えています。