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リレー寄稿

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【阪神・淡路大震災25年】澤田雅浩(さわだ・まさひろ)

2020年3月26日

【阪神・淡路大震災25年】澤田雅浩(さわだ・まさひろ)

兵庫県立大学大学院 減災復興政策研究科 准教授

出身地:広島県広島市
最近の防災・減災活動:内閣府地区防災計画アドバイザーとしてモデル地区の計画づくり支援、NPOふるさと未来創造堂理事長としてこども防災未来会議(新潟県)の開催 など

1995年1月17日、その時あなたは何をしていましたか?

神奈川県相模原市内で一人暮らしをしていました。
いつも、目覚まし時計代わりにJ-Wave(FM放送局)をつけていたのですが、普段なら元気の良いナビゲーターのジョン・カビラさんが落ち着いた、というかまったく雰囲気の違う語り口だったのを耳にして目を覚ますことになりました。その後、テレビをつけると神戸で大きな地震があったという報道に接し、何か大変なことが起きたと大学の研究室(当時は指導教員から修行に出されていたのでそちらへ)へと向かいました。都市環境を扱い、インフラの研究などもしていた研究室でしたので、伝え聞く状況に本当に驚き、今後どうしたら良いのだろうと先輩たちと話をしていたように思います(当時は修士課程の1年)


あなたの25年は神戸にどう影響されましたか?

母校の指導教員の伝手で、神戸大学の室﨑先生の研究室に約1カ月弱経過した時点でお手伝いに行くことになりました。建物被害調査は終わり、避難所調査が始まっていた頃です。神戸大の学生さんとペアになって被害を受けた神戸の町へと出向きました。焼失した建物がまだそのまま残るさまに、衝撃をうけました。避難所では、東京から何をしに来たのか、何か物資でも持ってきたのか、と避難者の方に厳しい口調で話しかけられたりすることで、自分たちはわざわざ何をしに来たのか、何ができるのか、を考える機会になったとともに、無力感とやはり当事者じゃない者の立場の難しさを感じました。結局、その後何度か調査等で神戸に行くことがありましたが、ちょっと距離がありつづけたと思います。
そのなんとなくの後ろめたさがあったことで、自分の暮らす町が地震に見舞われた2004年の中越地震以降は、いろんな取り組みに関わることや外部から支援してくださるみなさんを良いカタチで被災地に関わってもらいたいとおもい、行動することにつながっています。


それを踏まえて現在どんな取り組みをしていますか?

結果的に防災や復興を考える研究者になりました。といいつつ、一つの答えがない復興や防災です。
なるべくその現場にしっかりと向かい続けること、向かい続けられる場を作ることが大切だということを学生とともに再確認しています。