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リレー寄稿

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【阪神・淡路大震災25年】福和伸夫(ふくわ・のぶお)

2020年3月12日

【阪神・淡路大震災25年】福和伸夫(ふくわ・のぶお)

名古屋大学減災連携研究センター 教授

生年月日:1957年2月
出身地:愛知県名古屋市
最近の防災・減災活動:地域が主体になった防災・減災活動のため、名古屋周辺で「ひと・こと・もの・ば」作りに勤しむ。
見たくないことを見て、これからの災禍を乗り越えるため、信頼できる仲間が集まり、社会の不具合を本音で語り、問題の本質を見抜き、本気で実践する場作りを行う。
現役終了間近になって、経験豊かで意欲ある方々と出会い、互いに学び合い、現役の方々に迷惑をかけず、言いにくいことを言い、無私の心で実践するシニアパワーに心が動かされている。

1995年1月17日、その時あなたは何をしていましたか?

センター試験の監督をした3連休の翌朝で、名古屋郊外の自宅で就寝していました。朝5時46分の揺れで目を覚ましましたが、テレビをつけることもなく再び寝てしまいました。今なら、緊急地震速報が流れ、すぐにスマホなどで確認したはずですが、当時はのんびりしていました。朝起きると、テレビには神戸の高速道路の様子が映っていました。
当日の午前中は、岡崎市で建築訴訟の現地調査があり、車で岡崎に出かけました。カーラジオで聞く被災地の様相は、刻々と酷くなりました。当時は、ホームページで情報確認できなかったので、焦りながら大学に戻り、活断層マップや近畿の過去の地震を調べました。恥ずかしながら、それまで、神戸直下の活断層のことはほとんど知りませんでした。
午後に地元新聞社から同行取材の依頼があり、近鉄特急で大阪に向かいました。難波周辺は大変な雑踏で、タクシーで新聞社の大阪支社に行き、通信局の音声が流れる中、情報収集をしました。その後、大渋滞の中、何時間もかけて尼崎のホテルに向かい、サイレンが鳴りひびく中、夜を明かし翌日を迎えました。
翌朝は、山側から西宮に入りました。斜面を降りて阪急を越えた辺りから被害が甚大になりました。西宮、芦屋、東灘、灘を回る中、芦屋と東灘の境で、高速道路が倒壊していました。東灘や灘では見渡す限り家屋が倒壊していました。壊れた木造家屋は、当時の拙宅とそっくりでした。家族を守り耐震工学の教鞭をとる身として衝撃は大きく、しばらく夜うなされました。このときに、体調を落とし、禁煙できたのが救いです。


あなたの25年は神戸にどう影響されましたか?

私人としては、自宅の建て替えに邁進しました。外食や家族旅行を我慢し、一生懸命貯金して、5年後に自宅を立て直しました。建て替えに当たっては、地震対策第一でした。
研究者としては、新築の大規模建物ばかりを見ていて、建物の耐震性を過信していたことを反省しました、また、強烈なパルス状の揺れや不整形な地盤による波動の干渉など、地盤の揺れの研究の必要性を痛感しました。この後、強震動、地盤探査、免震、耐震化、被害予測、災害情報システム開発など、研究の幅を広げることになりました。
また、当時、東京大学にいた山崎文雄先生が主導したKOBEネットの活動に参加し、協働することの大切さを感じました。また、耐震化教材の開発を進める中で住民をやる気させることの難しさを感じ、災害被害を軽減する国民運動に入り込むようになりました。


それを踏まえて現在どんな取り組みをしていますか?

人間が防災行動をするには、頭で分かっているだけではだめで、納得し我が事と思い、説得し決断してもらい、解決策を提示しないとうまく行きません。また、個人や家庭が動くには、学校や地域、職場からのアプローチも必要になります。そこで、防災教育、地域活動、産業防災など、対策が進むよう搦め手での環境作りをするようになりました。
その一環として、名古屋大学減災連携研究センターの設立、減災館の開設、産官学が連携したあいち・なごや強靭化共創センターの設立を進めています。また、名古屋で開催した「ぼうさいこくたい」は大いに役に立ちました。最近では、隣り合う市町村が助け合える体制を作ることや、製造業を中心とする産業が災害後に国際競争力を失わないよう、本音を語り社会のボトルネックを見つけそれを直す場を作ることに注力しています。
今は、南海トラフ地震の臨時情報が発表されたときの課題を通して、改めて社会の事前防災の大切さを実感し、事前防災を進める体制作りに勤しもうとしています。