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リレー寄稿

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【阪神・淡路大震災25年】黒田洋司(くろだ・ひろじ)

2020年3月21日

【阪神・淡路大震災25年】黒田洋司(くろだ・ひろじ)

(一財)消防防災科学センター

最近の防災・減災活動:各地で行われる市町村の防災図上訓練の支援や研修に携わる

あなたにとって、阪神・淡路大震災とはなんですか?

私にとって、阪神・淡路大震災は、被災した市町村が発行する臨時の広報紙(チラシ)の意味を考えるきっかけとなった大災害でした。
当時、被災地では、ベニヤ板に貼られた臨時の広報紙が電柱などに掲示されているのをよく目にしました。中には、激務の中、優先順位を下げずに毎日発行している団体もありました。1年が経過する頃、各地で記録誌が編纂されましたが、多くの団体では、発行した広報紙が資料編の中にそのまま掲載されていました。
市町村にとって臨時の広報紙は、日々変わる地元の情報を自ら伝える手段として欠かせないものであること、毎日の積み重ねが後日災害の記録として大きな意味を持つことなどいろいろな意味を持つことに気づかされました。そして、臨時の広報紙発行という活動そのものが、市町村(災害対策本部)の中の情報の流れを整え、組織の活動を活性化させるといった副次的効果を持っているのではないかという考えも抱くようになりました。


社会にとって、阪神・淡路大震災はどういう課題を残し、それはどれだけ解決したと思いますか。

その後、臨時の広報紙の取組みは、さらなる意味を示唆しながら途絶えることなく繋がっていきました。
たとえば、新潟県中越地震(2004年)では、震度7を観測した川口町で練馬区などの応援を得ながら臨時の広報紙が毎日発行されました。そこでは、臨時の広報紙の発行が応援・受援業務の一つとなる可能性とともに、懸命に現場活動に従事する中で全体状況の把握がままならない職員への情報共有手段としての意味も持つということが指摘されました。
東日本大震災(2011年)では、陸前高田市で3月18日から毎日臨時の広報紙が発行されました。
2019年3月、戸羽太市長にインタビューする機会があり、発行した広報紙が「市役所はなくなったけれども行政が動いているぞと、何かしら動いているぞということをお知らせするには、非常に有効な手段でした。」「あれはわれわれの数少ない成功事例というか、うまくいったねということの一つだったというような気がします」といった話を伺うことができました(https://www.isad.or.jp/video/video08/)。
熊本地震(2016年)では、南阿蘇村が「乗り越えよう」というタイトルで本震発生翌日の4月18日から臨時の広報紙を発行し、その取組みが刺激となって周辺の被災市町村に波及していったようです。


残された課題の解決のために、社会には何が求められるとお考えですか。そのために、あたたは何をされていきますか。

今日、市町村は、SNS、防災メール、ホームページなど阪神・淡路大震災当時には考えられなかった住民への直接の情報伝達手段を持つようになりました。もちろん、災害時にはこうした手段が最大限に活用されることが求められます。
同時に、「紙」というアナログな手段も市町村にとって有形無形の見逃せない意味を持っており、この点を、私自身はいろいろな場でこれからも訴えていきたいと考えています。