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特集

近衞忠煇防災推進国民会議議長 インタビュー

2016年8月23日

第1回 防災推進国民大会

 

2016年8月27日、28日に開催される「第1回 防災推進国民大会」を前に、内閣府と共に主催する「防災推進国民会議」、「防災推進協議会」のそれぞれ議長、会長を務める近衞忠煇氏にお話を伺いました。

 

_X4R7549近衞忠煇(このえ ただてる)防災推進国民会議議長、防災推進協議会会長
(日本赤十字社社長、国際赤十字・赤新月社連盟会長)

 

 

●世界で初めて災害救護にあたった日本赤十字社

──まず、日本赤十字社は世界で初めて災害救護に関わったと聞いていますがそのあたりからお話いただけますか?

近衞:ご存知のように、赤十字はヨーロッパで戦時救護を目的に誕生しました。日本赤十字社の前身も、西南戦争の時に設立された「博愛社」という組織でした。これが1887年に日本赤十字社と改称した翌年、福島県の磐梯山で、噴火により山体崩壊を伴う大災害が起きました。当時、明治天皇のお妃の昭憲皇后が熱心に赤十字を支援してくださっていたのですが、「赤十字社から救護班を出してはどうか」というおことばがあって、派遣したと聞いています。これが、平時における赤十字の災害救護の世界初の歴史的な事例となったわけですが、ヨーロッパは自然災害が少なかったこともあり、天災の多い日本が最初の例となったのは、自然な成り行きかもしれません。

 

●1970年バングラデシュでの救護・防災活動

──日本赤十字社に入社されてから救護の活動もされたと思いますが、記憶に残っている現場の話を教えてください。

近衞:私が入社して間もない1970年に、当時の東パキスタンで大きなサイクロン(台風)が発生し、高潮で30万人もの方が亡くなりました。その直後に行ったのが最初の現場です。その時のパキスタン政府の対応への不満から、バングラデシュの独立戦争が始まりますが、サイクロンに続く内戦で、全土が大きな混乱に見舞われていました。日本赤十字社は、国際赤十字の一員として、ベンガル湾の島に医療救護班を派遣することを決め、1971年の独立直後、3ヶ月にわたる救護活動をしました。
この頃に、現地の赤十字が、「サイクロン対策計画」を打ち出し、国際的な支援を求めてきました。バングラデシュには、当時ユニセフが提供した気象レーダーがただ一つしかなく、また、たとえサイクロンの警報を流してもラジオを持っている人はほとんどいないので伝わらない。それで、日本でもまだ高価だったソニーの携帯ラジオを2000台と、警報を聞いた人が住民に知らせるためのサイレン付きのメガホンを提供しました。最新の携帯ラジオとメガホンを持って、住民の間を回るのはかっこ良かったので、優秀な若いボランティアが多く集まりました。世界の最貧国の一つの、そのまた最も貧しい沿岸地域ですから、住民の家財はほとんどありませんが、家を空けるのはやはり心配で、「避難しろ」と言われてもなかなか聞き入れません。そこで、わずかな財産のために命を落とすか、避難して助かるかを選んでもらおうと、「愚かな住民、賢い住民」という紙芝居を作って、ボランティアに防災教育をしてもらいました。
また避難しようにも、ゼロメートル地帯の沿岸には行き場がありませんから、住民の意見を聞いて、50メートル四方、高さ5メートルぐらいの高台を作りました。動員した住民には、賃金の代わりに救援物資を渡しました。我々が最初の3つほどを作り、あとは現地の人たちに引き継ぎました。ところがやがて、突風の中で高台にいるのは困難というので、高床式のシェルターを作ることにしました。平時には、シェルターは教育などいろいろな目的に使えるのでだんだん普及し、今では数千という単位で沿岸地帯に建っています。後に、1970年とほぼ同規模のサイクロンが襲った時には、死者の数が大きく減ったので、国際的にも「防災は救援よりも、はるかに効果的で安くつく」というお手本として引用されています。

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●転換点となった阪神・淡路大震災後

──日本赤十字社には「奉仕団」があり、阪神・淡路大震災以降は一般的にも「災害ボランティア」という言葉が広まりましたが、それぞれどのようにとらえておられますか?

近衞:日本赤十字社法ができた1952年(昭和27年)頃は、まだ行政の力が弱く、日赤の救護班や奉仕団が表に立って活動することが多くありましたが、1959年(昭和34年)の伊勢湾台風を境に、国を挙げて災害対策の法整備などが始まりました。行政の力が強くなり、日本の経済力も強くなるにつれ、日赤の役割は相対的には小さくなったように思います。
日赤では今も「奉仕団」という言葉を使っています。「奉仕」には、目標を誰かが(行政なら行政が)決めて、それに対して奉仕をするという感覚がありますが、「ボランティア」のそもそもの意味は、目標を自分らが見つけ、自らの意志で行動するということで、そこに根本的な違いがあると思います。だから私は、活動の動機はより「ボランティア」に近付けられたらと思っています。
もちろん従来型の奉仕団の役割は未だ大きく、養成をすることも大事です。一方で、自主的にボランティアをやる人たちには、できるだけ自主的に活動できる環境を整えることが必要だと考えます。ただ、めいめいがばらばらにやっていると混乱するので、情報の交換や共有や、重複しないように調整するなんらかの仕組みが必要ですね。

──阪神・淡路大震災後で状況は変わりましたか?

近衞:阪神・淡路大震災の時に「ボランティア元年」という言葉が生まれたように、前例がないほど多くの災害ボランティアが被災地に集まりました。法律上、日赤はボランティアの受け皿になると書いてありますが、それまではそういう局面がありませんでした。当時は「ボランティア活動はあくまで行政の下請け」的な発想がまだあったのではないでしょうか。日赤としても、ボランティアを動員してという発想はありませんでした。「奉仕団」はそれなりに活躍しましたが、自主的にやってきたボランティアの力を、どう生かすかについての備えが十分でなかったとの反省があります。

そこで阪神・淡路大震災後、災害ボランティア・リーダーの養成を進めましたが、東日本大震災を経験するまであまり出番がありませんでした。これを受けて、ボランティアの役割を見直し強化しようと、現在は災害ボランティアを1万2,3千人ほど養成しています。ただ、最近の熊本地震の例でも、すぐにどこでも活動できるかとなると、まだまだ課題が多いようです。

 

●トラブルを回避するための教育の必要性

──日赤や全社協も参加したJ-VOAD(全国災害ボランティア支援団体ネットワーク)が、熊本地震後に正式発足しました。国内外の災害ボランティアの違いはありますか?

_X4R7501近衞:経験の浅い日本では、ボランティアの募集、管理、評価まで、マネジメントが必ずしも十分でありません。また「二つとして同じ災害はない」と言われるぐらい被災状況は異なるのに、一回大きな経験をすると、ともすればそれを金科玉条に何でもそこからルールを導き出そうとするために、柔軟な対応が難しくなってしまいます。これは国際的にもよく見られる現象です。
アメリカ赤十字は、日常からボランティアに多くの活動を頼っており、特に災害対応では、ボランティア一人一人の能力の評価の仕組みがあります。例えば、あの人はチームリーダーとしてふさわしい、輸送関係に能力を発揮する、ITに優れているなど、細かく評価して登録し、全国で共有して、何時でも動員できるようにしています。何かあった時には「こういうニーズがあるからあの人にお願いしよう」となります。日本は、そういうところまでは行っていませんね。
被災者を擁護する対象としてのみ捉えず、彼等の持っている能力を、ボランティアとして生かすことも大事です。外からのボランティアは大切ですが、地元の受け皿が必要です。さもないと、自己満足で終わったり、善意の押し付けとなってしまうこともあるからです。国際的にも、海外からの救護班やボランティアが被災地の住民感情や風習を知らずに活動するために、せっかくの善意が理解されず、住民との間に緊張が生まれるのはよくあることです。

 

●「防災推進国民会議」議長として期待すること

0101──いろいろな経験の違いを乗り越えて仲間になった人を中心に、国民のすべてが関われる「防災推進国民会議」ができて、その議長に就任されましたが、国民会議に思うところをお聞かせください。

近衞:日本は災害多発国ですから、災害対策への国民的な関心が高く、特に災害後には、何かお役に立てばという気持ちを多くの人が持っています。ボランティア活動については、先ほどの評価システムなども含めて議論をする場ができるのは良いことだと思います。また、大きな災害が起きてからの自助、共助、公助だけでなく、防災の面から、国民一人一人、企業、地方自治体等がそれぞれに、また協力して何をすべきかについて議論できればと考えています。
南海トラフや首都直下などの大災害に備えることは当然として、各地で絶えず起きている小規模で局地的な災害に対して、それぞれの地域に根ざした対策が必要と考えます。そこで数年前から日赤は、実験的に幾つかの地域で歴史をさかのぼり、そこで過去にどのような災害があったか、現在それに対して行政にはどういう備えが出来ているか、住民はどこまでそれを知っているか、その地域の住民、行政、研究者、ボランティア団体等を巻き込んで、一緒に災害への備えの現状を検証し、対策の改善につなげて行く取り組みを始めています。参加者の評価が非常に高かったので、全国的に広げようと、そのための指導者の養成も始めています。こうした活動が、草の根で広がっていくことを期待しています。

 

●効率性ではなく、つながりをつくる防災へ

──第1回防災推進国民大会に対しては、どんなことを期待されますか?

近衞:地域で様々な立場で活動しておられる方たちの顔が、日頃からつながっていて、何かあったら電話一本でよろしくと言えば済む、というのは大きいですね。国際社会でも同様で、顔がつながっていれば連帯感が生まれるし、協力もしやすいですね。国際赤十字には相互援助の仕組みがあり、普段、日赤は援助する側ですが、東日本大震災の時に痛感したのは、日本は案外国際的に開かれていないことでした。自力でなんでもできると思い込んでいたり、遠慮があるのか、外国から支援の申し入れがあっても断ってしまう傾向がありました。日本から援助する時も、人はいりませんと断られると、やる気が半減します。ですから、このグローバルな時代には、互いに出番を作ることで、参加意識や連帯意識を持てるよう工夫することも必要です。
ODAの話でよく聞きますが、先進国が最先端の機械を持って来て、ある日何もなかった所に、あっという間に橋ができる。地元の人は参加しないから、誰が作ったかもよく知らないし、感謝の気持ちも自分たちの物という意識も生まれない。対照的に、地元の住民にわずかでも賃金を払って、10年もかけて橋が完成すると、「あれは俺たちが作った橋だ」と誇りに思ってもらえる。どちらがいいか。何千年もなかった橋を作るのに、何も数年を急ぐことはないわけですね。能率よりも、一人でも多くの人に参加意識を。これは防災にもつながります。多くの国民には、関心も時間もやる気もあるわけですから、それを活用しない手はありません。国民会議、国民大会が、それをどう具体的な行動につなげて行けるかも議論する場となることを望んでいます。

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【編集後記】
インタビューの最後に「橋」の話が出てきますが、昭和の時代の日本ハード防災はまさにそのようなところがありました。「お任せください、大丈夫ですよ」と言われて、何の説明もなくハードができてしまっていた。それが、レジリエンスという考え方が出て来て、一緒になって考える姿勢や、ソフト防災が重視され始め、リスクコミュニケーションなどもようやく話題にあがって来るようになりました。みんなが担い手になって行かなきゃいけないという、ようやくそういう時代になったのかなと感じます。近衞さん、8月27日、28日の「第1回防災推進国民大会」では、ぜひ、みんなの勇気が出るようなご挨拶をお願いします。貴重なお話をありがとうございました。

インタビュアー 中川和之(なかがわ かずゆき)
時事通信社解説委員、静岡大学防災総合センター客員教授